足跡マップでは、敦賀に上陸したユダヤ難民がたどった主な経路と当時のエピソードを4つの看板にて紹介しています。人道の港敦賀ムゼウムから氣比神宮までの道には、ユダヤ難民たちの足跡をイメージしたピクトグラムを描いています。
ユダヤ難民がたどった道を巡りながら、敦賀の街中を散策しませんか?
4つの看板では敦賀でのユダヤ難民のエピソードを紹介しています。
上陸地点から氣比神宮までのルートには、ユダヤ難民たちの足跡をイメージしてピクトグラムが描かれています。
上陸地点
昭和初期の金ヶ崎(金ヶ崎桟橋と税関)
[提供:敦賀市立博物館]
1899(明治32)年に開港場(外国貿易港)の指定を受け、日本とヨーロッパを結ぶ交通の拠点として繁栄した敦賀港は、1920年代にポーランド孤児、1940年代にはユダヤ難民の受入れの舞台となりました。まるで悪夢のような体験をした彼らは身も心も疲れ果て、受入れてくれた敦賀の人々の温かさに感動し、敦賀のまちを「天国」と表現しました。
リンゴの少年
昭和初期の敦賀港全景
[提供:敦賀市立博物館]
敦賀港に到着した船からは、溢れんばかりのユダヤ難民が上陸しました。難民たちは自由の地に上陸した喜びの一方で、ほとんどが十分なお金を持たず、お腹をすかせていました。そんな彼らに、ひとりの少年がリンゴやバナナなどの果物を無償で配っていたそうです。難民のひとりは数十年ぶりに敦賀を再訪問した時に「リンゴは本当に甘くて、おいしかった」と語っています。
朝日湯
若六旅館
敦賀港に上陸したユダヤ難民たちの多くは、次の目的地である神戸に向かうため敦賀駅を目指しましたが、中には、天満神社付近にあった「若六旅館」に宿泊した人もいました。また、当時このあたりにあった銭湯の「朝日湯」では、難民たちに無料で風呂を開放したそうです。実際にこの銭湯に入った、あるユダヤ人男性は「温かい湯は気持ちが良くて、本当にうれしかった」と語りました。
カラー舗装道路
「朝日湯」の看板前の歩道は、敦賀港と国道8号を結ぶ歩道であり、観光地周辺の道路景観整備の一環としてカラー舗装が令和2年度に行われました。
渡辺時計店
ユダヤ難民が残した時計
渡辺時計店
敦賀駅周辺にはユダヤ難民を目撃した市民の証言が数多く残されています。神戸へ向かうために難民が駅に押し寄せた様子は新聞記事にも取り上げられました。 また、当時駅の近くの『渡辺時計店』の店主は、お金を持たない難民たちから時計や指輪などを買い取ったり、食べ物を提供したりしました。買い取った貴金属のほとんどは空襲で燃えてしまいましたが、奇跡的に残った腕時計が「人道の港敦賀ムゼウム」内で展示されています。
敦賀駅